粘土細工のろうそく

 薄暗い部屋、七時ちょうどに目が覚めた。どれほど寝たのか確認しようとLINEをひらくと、二十三時半あたりから私の返信が途絶えている。ということは日が変わるころには眠りについていたのだろう。なんて健康的なんだ(……疲弊しきった精神とは裏腹に)。芽生えかけた皮肉な気持ちを頭のすみに押しやって、私はあらあらしい動作で抱き枕の下に潜りこんだ。ホルモンバランスの関係で、生理前にはいつも鬼のような眠気がおとずれる。思うがままに惰眠をむさぼることのできるこの数日間は、不眠症の私にとって、とても貴重なものだった。今日は用事もないし、いけるところまでいってやろう、と思い切った気持ちでまどろみを堪能していると、空想とも遠い記憶ともつかない、淡い映像に脳が浸されていった。空は一枚のはんぺんのような薄桃色の巨大な雲におおわれていて、その下にはどこまでも湖が広がっている。水は入浴剤を溶かされたように、とろりと白く濁っていて、無力な水草となった私はそこに浮かび、しずかに揺られている。ときおり起こるさざなみは、肌に当たって砕けた瞬間、熱くなったり冷たくなったりして、この場所がまったく物理法則に縛られていないことを示している。あらゆるしがらみから解放された気分だった。それでも、七時間というのは私の眠りのタイムリミットなのだろうか。数分と経たないうちに、脳にかかった靄は急速に晴れてゆき、現実がものすごい引力で私の腕を、足を、髪の毛をつかまえた。それにあらがって私は必死に、外界から流れこんでくる刺激思考その他もろもろを遮断しようとするけれど、気づけばあの、生まれる前を想起させるような原初的安心のある湖は消えていて、延々と続くまっしろな空間に放りだされていた。そこはたしかにまっしろだけれど、私をぐるりと取り囲むように見えない壁が屹立していて、ここからはもうどこにもゆけないのだと教えていた。私は一つの世界が終わってしまったことを肌で理解し、やるせない気持ちで体を起こした。

 それでも夢さえ見ずに熟睡したおかげか、多少気分が良かった。ストレスによって醜く脂肪が蓄えられた太ももや腹周りも常時ほどには気にならず、「まあこんなもんだろう」という間の抜けた感想にすべての挫折と諦念をつめこんで蓋をし、一張羅の真っ赤なワンピースを引っ張り出した。朝の日課として低用量ピルとチョコラBB、食欲を抑える漢方薬を、これ自体が薬なんじゃないかと思うほどに渋くなった昨夜のほうじ茶で押しながしつつ、SNSをチェックする。親友に送った短歌に感想が返ってきていて、わずかに気分が浮き立つ。しかしTwitterのDM通知を確認するとすぐさま地底にまで引き摺りおろされた。三件ともどこまでもくだらないナンパのような文言だった。長いこと出会い系をやってきたから、ツッコミどころのない挨拶文には吐き気がするほどうんざりする。存在するだけで誰かの興味を惹ける人間なんていない。「話しましょー!」で話せると信じられる思考停止具合、神経の図太さは一体どうやって成り立っているのか不思議だ。よもやそれで成功してきたわけはないだろう。相手に無視されようが冷たくあしらわれようが我関せず、己の精神世界は常に無風、といったアスリート並みのメンタリティを擁しているのだろうか。

 私はこうして、耐えきれない出来事に遭遇するとその原因をくだらないものとして捨象することで自分を保とうとしてきた。けれどそれを完遂するできるほどの強度があれば初めからこうした些事にくよくよしたりしないのだ。そして結局は自責感情の波にさらわれる。私はナンパ野郎と同列に、休日のデパートを元気溌剌に駆けまわる子どもも、恋人と繋いだ手を世界の全てに優先させて狭い道を一切譲ろうとしないカップルも、何でもないきっかけをこじあけて無理やり長話をはじめるコミュニケーションに飢えたご老人も、みんな嫌いだ。平たく言えば、性格が悪いんだろう。自分の行く手を阻みうるイレギュラーを極度に嫌悪している。私に言わせれば、「性格が悪い」というレッテル貼りも卑怯なのだけれど。何にせよ最低になった気分は不可逆で、こうなればもう私にとっては全身の毛穴にもれなく刺しこむ苦痛のみが真実だった。

 今日は新居の契約日だった。晴々しい節目に不適当な重たい足取りで家を出た。例のごとく猛烈な睡魔に押しつ押されつもんどり打っての死闘を繰り広げているとあっという間に事務所へ到着した。契約についての注意事項を聞き、不動産業者にうながされて書類の所定欄に粛々と記入・署名・捺印をしていく。鼠の足音一つしない日曜午前のオフィスビル地下。今隕石が落ちてきても私は気づかず作業を続けるのではないかと空想するほど滞りなく時間が流れた。そうして数十分が過ぎたとき、担当者が所用により席を外した。一応あたりを見回して誰も居ないのを確認し、マスクを外して息をつく。すると、ずいぶん呼吸が浅くなっていたことに気づいた。書類の山はまるで奴隷船のごとく小さな文字でびっしりと埋めつくされ、「あなたはこれに同意しましたよね。それならば…」と詐欺師風の丁寧な口調で一つひとつ言質を取ってゆく。紙束のむこうに存在するみえない契約相手が、有事の際に備えてかしゃんかしゃんとバトルスーツを装着している映像が脳裏に浮かび、その仮想敵に指定されているのが私であるという事実にめまいがした。そもそも、ここでいちいち詳細をあげつらう気にはなれないが、不動産の業態そのものがかなりグレーというか、もはやブラックと形容していいようなやり方が当然のものとしてまかり通っている。そして、それを黙認しているのは、不動産業界ひいては世の中全体だ。そこまで思い至ると、世の中というのがひたすらとてつもないものに思え、全身の力が抜けた。そういえば予備校業界に勤めていたときもそうだった。既得権益を守るためなら個人を貶めることも辞さない、という構えがありありと見てとれた。わずかでも油断を見せたらすぐに足元を掬ってしまおうと四方八方から波が押し寄せて、挑発するようにつま先を撫でていく。こんな場所を綺麗なままでは生きのびられない。砂と潮が私をべたべたのじゃりじゃりにしていく。

 契約を終えるとその足でデートに向かった。いつもの町の行きつけの居酒屋で食事をとることになっていた。ちょっと変わったおつまみと王道派の焼き餃子が売りの店だ。ここ一ヶ月、節約のため会うのは決まってサイゼリヤで、そろそろ飽きが来そうになっていた私にとって、嬉しい気分転換だった。けれど、店に足を踏み入れたとたん、今日の私にとっては少し厳しい選択だったと直感した。せまいせまい店内に溢れんばかりの酔客たちは、ひどく無遠慮に私たちに視線を投げかける。瞬間的に、無理、と感じていた。けれどそんなことをその場で彼氏に説明して店を変えようと提案するわけにもいかず、気丈をよそおい通された席につく。待機していた店員に彼は強炭酸ハイボール、私はジャスミンティーを頼み、乾杯をしてお通しをつついた。

 私は酒を呑まない癖におつまみの類が大好物で、当然居酒屋のメニューも大好物なのだけれど、来ると決まって少し悲しい気持ちになる。一人シラフで取り残される孤独感もあるが、それだけではない。他のテーブルが繰り広げる会話のスピード感というか、隙のなさについていけないのだ。店内の各所で、「ロールキャベツ系」とか「雰囲気イケメン」とか「バチェラー」とか「ヤリモク」とかいった語彙が飛び交って、この場所全体に強烈な磁場を形成しているように見える。時折、後ろのテーブルに座った男性と背中が触れあう。気持ち悪くて数度椅子を引いたものの無駄だった。潔癖症なわけではない。しかし、他人と肌が触れ合うことを気にもかけない、私とはまったくもって異人種である存在がすぐそばに居ることが怖かった。一秒後の瞬間すらコントロールできない不能感におちいってしまう。

 私はうまく言葉を紡ぎだすことができず、聞きたくもないのに勝手に耳に入ってくる会話の断片を、できるだけ価値判断しないようにとひたすらにテーブルの木目を見つめることに集中していた。すると彼氏が「女の子の友達といるときってどういう話するの?」と聞く。

「うまく話せないから、たいていコスメ情報とか運ばれてきた料理とかについて話してやり過ごしてる」
「男と話してる方が楽なの?」
「うん。多少見下してるから。あ、でもTのことは見下してないよ」
「みんな見下すなよ(笑)」
「そだね」

店内が騒がしい。

「でも、小さな頃から、女性らしさを下等なものとして位置づける言説のなかで育ってきて、せめて個人的な土俵で見下したりでもできないと、保ってらんない」
「そっか」

 新メニューの酸辣湯餃子が運ばれてきて、会話は一時中断になった。真っ赤でぎとぎとのスープに浮かんだ水餃子をながめる。無垢な魂がなすすべもなく地獄の業火に焼かれているようで、かわいかった。なんとなく、今もしかしたら泣けるかもな、と思っていたらすでに涙が出ていた。彼氏に「からいの?」と聞かれる。首を振る。「鼻が詰まってるの?」と聞かれる。こんなに突如として詰まるわけないだろ、と胸中で笑いつつ、首を振る。髪で顔を隠しながら、もやもやと浮かぶ卵の切れはじを箸でつついている私をじっと見て、「出よう」と彼が言った。レジにいくと、店員はまっすぐに彼氏をみて「現金ですか?カードですか?」と声をかける。私が「現金で」と答えると意外そうに目を見張りつつ「レシートは要りますか?」と続ける。ため息が出た。舌打ちをこらえ、苛立ちを隠し味程度に滲ませた声で「はい」と答える。

 彼氏は私をベンチに落ち着かせようとして、片方の座面が雨に濡れていたので躊躇した。私とちがって生粋の潔癖症なのだ。笑いながら、私がこっち座るよ、というと乾いた板に大人しく腰を下ろした。そして顔をのぞきこみながら「どうしたの?」と聞く。「どうもしない。発作みたいなものだから」と答える。「よし、それなら寒いし早く帰ろう。疲れてるんだよ」と立ちあがる。歩き出して、「居酒屋行くと少し悲しくなっちゃうんだよね」と自虐的に笑ってみた。店のグレードとかそういうことを気にしていると勘違いしたのか、「まあでももうあんな店も行くことないよ、時間できるし俺が作るよ」と答える。

「いや、なんかさ、ああやってワーっと話してる人たちには、その場しのぎみたいな感覚ないのかなって」
「その場しのぎ?」
「わたしは、生理前とか低気圧とかもめちゃめちゃ辛いし、親の私に対する気遣いやらラッシュ時間帯の電車内のギスギスした空気やらそういうのも悪い方向に引きずっちゃうし、次、次いつしんどくなるんだろうって常に考えながら生きてるから、今朝だって別に、気にしなきゃいいのに、悪意のないDMに傷つけられたような気分になって」

 俺が居るから大丈夫、とりあえずあったかいところに入ろう、と肩をだきながら、彼は近くのショッピングビルに私を引っ張ってゆく。幸福の度合いがおおきいほど、喪失感もおおきくなる。だから本当のところは、Tの存在が一番つらい。そういった言葉をのみこんで黙って明かりの方へ歩を進める。遭難しているみたいだった。彼氏は身体と精神が密接に結びついていると考える立場で、私が悩みを吐露するとまず物理的な安全性を確保してくれる。見当違い感がぬぐえない必死さがかわいらしいなと思った。閉店間際のユニクロを前にして服をみる気には到底なれない私たちは、エスカレーター前に所在なく佇み、地下に滑っていく黒いステップを見るともなく見ていた。がこん、がこん、がこん、がこん。一定のリズムに、幼少期、親が背中をたたいて寝かしつけをしてくれたことを思いおこす。すうっと気持ちが落ち着いてきた瞬間、彼氏が「こんなの見てるだけで鬱になる!」と停滞をやぶった。そして、いつの間にか握りしめていた私の指を一本ずつ剥がしていく。ひらかれた拳は真っ白で、しわくちゃで、指鳴らしの癖の名残りで関節がゆがんでいた。まるで出来の悪い粘土細工だった。彼は、丁寧に慈しむように、醜い中指を何度もなぞる。「そのままでいいんだよ」と目が伝えていた。普段は鼻につく「無償の愛」という言葉にひそんだ欺瞞が、今は気にならない。すすけた自動ドアの向こうには俗っぽいイルミネーションがぼやけていた。小さな町の夜のまんなかで、ゆっくりと静かに、純度の高い熱源が目をさますような気がした。