神様のおしのび

 商店街の中心に位置するこの部屋は、真夜中でももやもやと明るい。窓から手の届きそうな位置に街路灯があり、セブンイレブンは24時間休まずに、業務用冷凍庫のような仄青い光を道路に漏れさせている。越してきた当時は、この明るさに戸惑った。寝付くのにずいぶんと難儀して、部屋選びのポイントはつくづく多い、と感じ入ったものである。
 
 それが今や、日の変わる一時間前には必ず消灯して、朝の九時までたっぷりと寝る優雅さを獲得した。パートナーの手料理で心を満たし、過食嘔吐の繰り返しから卒業した。風呂場で一日の垢を落とすことなく布団に入る頻度もめっきり減った。なんとなく今日は目が冴えている、という晩にも、無暗にPCをひらき、広大なネットの海をさまようなんて真似はしない。おとなしく寝具のすきまにおさまり、ときおり通る車のヘッドライトが映しだす、裸木の影絵をながめている。
 
 そんな日々のなかで、しかし私は、かくじつに衰弱している。名前をもった器官が病んでいる訳ではない。ただ、私の体をまとまりのあるものにしていた何かが機能しなくなってしまったのだ。たとえば歩いている時、足だけが正しくうごいている感覚がある。接着のゆるくなった胴体は、石膏像のようにごとんと落下して、まっすぐな足だけが右、左、右、と規則通りすすんでゆく。陽に透ける道路に横たわった胴体は誰にも気づかれず、商店街を往来する人々の会話が、プールのさざめきのようにさらさらと頬を撫でては過ぎる。そんな白昼夢のような時間が耳鳴りのように、ずっと私の脳裏を流れている。
 
 原因はよく分かっている。扶養を抜けてからというもの、私の日常は、舌を巻くスピードで数字に浸食されていった。たとえば、値札をみずに菓子を買うことはなくなった。目覚ましをかけずに居眠りすることもなくなった。次の生理までの残日数を把握するために、カレンダーをなぞらない朝はなくなった。そうして私にかかわる何もかもが、大小さまざまな単位を、洋服のタグのごとくひらひらとぶら下げている。すこやかさを獲得していく暮らしの様子と裏腹に、せなかのタグは絶え間なく肌を刺す。いつか、ラジオで科学者に「世界は朝からはじまったの?」と聞いた少女がいた。むず痒さに邪魔されて、輪郭を得られないまま闇へと溶けてゆくのは、まさにこういった疑問だろう。それはつまり、ループする運命に突き立てる、墓碑のような問いのことだ。あらたな地平は、物語は、文章は、いつだって破れ目にこそ生じる。
 
 だから私は、短歌を選びなおした。終わらない息切れのような社会生活のなかで、この文芸の無責任さにあらためて惹かれた。問いを引き受け、答えを追求する。そんな高尚な営為を引き受ける余裕を、今の私はこれっぽっちも持ち合わせていない。かたや短歌というものは、ほんとうに自己中心的なのだ。秀作と呼ばれる短歌には、突き抜けた切実さがある。物事をある一つの視点から記述し、ほかの視点は捨象する。もちろん、作中主体の考えや感じ方についての冗長な裏付けなども行わない。たった三十一音の枠の中で何かを伝えようとすると、そうせざるを得ないのだ。そんな言葉足らずで言い切りの作品に対して、私たちはしかし、いくらでも批判が可能だからこそ、逆に切りこみ方を見失う。ちょうど、犯罪者の手記が支離滅裂であるほど、それが彼にとっての真実なのだと痛感させられるように。この世の責任という責任から逃れたい私は、そんな短歌の海にきらめく酸素を見出したのだ。
 
 それでも、エゴイスティックな作品を制作しつづけることは、それ自体が一つの思想の表明になるだろう。それは、個性賛美の思想だ。とはいえその個性とは、一般に考えられているような、風変わりな一芸だとか、生きづらさの原因だとかではない。普段は言葉の裏側にその身をじっと潜めているものだ。
 
 そもそも、人間は刹那的な存在で、一貫性などというものはすべて後づけでしか有りえない。あるときは現実に生き、あるときは幻想に生きる。自らを取り巻く世界も目まぐるしく流転する。そんななかにあって、歌を詠むとは、目の前のものに全神経を尖らせ、言葉を生け捕りにする。そして、作品のなかに一回性をもった秩序を築くことだ。一点集中。それは、文脈を持った存在としての人間から、作品を切り離すことではない。作者から剝ぎとられるのは、集合としての無意識だ。万人に通じる言語を手放してはじめて、作者の魂がほんとうの形を取り戻す。まさに、個性が目に見えるものになる瞬間だと思う。個性は翻訳可能なものではない。祈りとも言える言葉の積みかさねのすえに、まるで神様のおしのびのように、一瞬間ひらめく奇跡なのだ。

                   ◇

  午前九時。昇りかけた日の光がすだれの隙間から差しこみ、ようやく目を覚ます。頭の片隅でRe: Re: Re: Re: Re:……とアラームに似た悲鳴が鳴っていて、今日もまた、昨日までの複製のような一日が始まるのだと予感する。

 そんなときに短歌の存在は、毎秒犯されつづける四捨五入のあやまちに、そっと赤を入れる。そして読み替えるのだ。今この瞬間に私が私である偶然を、ひとつの奇跡として。

 

更衣室の匂い

 夜中の三時頃に目が覚めて、セックスをした。一連の行為がおわると互いに背をむけて、わたしは汗拭きシートで体液のついた手をぬぐっていた。目を開けているのか閉じているのかさえ忘れる夜のなかで、汗のにおいとすうすうした柑橘の香りが入り混じり、わたしは場所とか時間とか、いわゆる座標というものが自分からぐんぐん遠のいていくのを感じていた。わたしは元居た場所、つまり地球のなかの日本のなかの東京のなかの畳の部屋に敷かれた布団から遠く遠くのどこか、果てと呼ぶのにふさわしいどこかに放り出されて、宇宙がそのおおいなる呼吸とともに、わずかずつ肥大していくのをじっと見ている。それにあわせてプランクトンのようにわたしの身体もおしながされていくけれど、おそろしさは欠けらもない。光も空気もない空間は、何もへだてずぴとっとわたしに寄り添ってくれる。

 そうして闇にゆたゆたと身を任せていると、ふと、目のすみに、ざわざわ点滅を繰り返す映像があることに気づく。それは高エネルギー体のように、熱をもち、ぶううんと震え、滲みながらゆっくり拡大されて、最初は三等星ほどだったのがいまや最前列でみるスクリーンくらいの大きさになっている。そこは五年生の夏休みのある日、十時半頃、屋上プールにつながる更衣室だった。夏季休暇中の水泳は自由参加で、休みがとれない親をもち、旅行やお出かけに連れていってもらえない、なんだかぱっとしない子ばかりが集まる。そこに通うことはわたしにとって屈辱的な烙印以外のなにものでもなく、しかし背の順で万年一位のまぎれもなくみそっかすだったわたしは、せめてもの反抗心の証として、毎回二十分程度遅刻していった。とっくに誰も残っていない更衣室は窓が開けはなたれ、菜の花色がさらに黄ばんだカーテンがさらさらと揺れていて、それを二、三分眺めてからもたもたと服を脱ぎ、窮屈な水着に足を通すのが通例だった。しかしその日は部屋の奥にひとつの人影をみとめた。所在なさげに立っているのは、同じクラスだけれど保健室通いで、教室ではめったにみかけない大人しい女子だった。ほとんど話したことはないのに、一度だけなりゆきで、その子の家に遊びにいったことがある。遊びにいくというよりは、ついていくと言った方が正しいような訪問だった。二メートルほど前を歩いていたその子のランドセルに、ほわほわしたキャラクターのストラップが揺れるのを見るともなく見つつ下校していたとき、彼女は唐突に立ち止まって「うちに、猫いる」と言った。驚いたわたしがほとんど反射的に「みたい」とつぶやくと、「じゃあ、くる?」と、そんな感じだった。彼女もわたしも、有無を言わさぬ空気の流れ、「運命の大げさじゃない版」とでもいうような何かにあやつられていた。彼女の家は学校から十五分ちょっと歩いたマンションの一室で、灰色のもしゃもしゃしたカーペットが一面に敷かれ、部屋いっぱいに干された洗濯物に窓からの光がさえぎられていた。猫は、部屋の五分の一はありそうな大きなケージに入っていた。二匹。思い思いの方向を向いてしっぽを持ちあげ、呼びかけるように鳴いていた。

 そんなことがあったから、声をかけないのも悪いような気がして「きがえないの?」と聞いた。彼女はあいまいに、うなずくのと首をかしげるのの中間のうごきをした。彼女の隣に荷物を置くと、わたしは何かにおいがすることに気がついた。瓶に入ったピリ辛めんまの漬物を、さらに熟成させたようなにおい。「これなに?」と言おうとして、彼女がここまできて着替えを渋っている理由と、この不思議なにおいにはきっとつながりがあるのだと直観し、急ブレーキをかけた。得体のしれない何かをかかえて立ち尽くす同級生にどう対応していいかわからず、わたしはそそくさと水着の肩紐にゴーグルをはさむ。そして、先いくねと、屋上につづく短い暗い階段をのぼっていった。

粘土細工のろうそく

 薄暗い部屋、七時ちょうどに目が覚めた。どれほど寝たのか確認しようとLINEをひらくと、二十三時半あたりから私の返信が途絶えている。ということは日が変わるころには眠りについていたのだろう。なんて健康的なんだ(……疲弊しきった精神とは裏腹に)。芽生えかけた皮肉な気持ちを頭のすみに押しやって、私はあらあらしい動作で抱き枕の下に潜りこんだ。ホルモンバランスの関係で、生理前にはいつも鬼のような眠気がおとずれる。思うがままに惰眠をむさぼることのできるこの数日間は、不眠症の私にとって、とても貴重なものだった。今日は用事もないし、いけるところまでいってやろう、と思い切った気持ちでまどろみを堪能していると、空想とも遠い記憶ともつかない、淡い映像に脳が浸されていった。空は一枚のはんぺんのような薄桃色の巨大な雲におおわれていて、その下にはどこまでも湖が広がっている。水は入浴剤を溶かされたように、とろりと白く濁っていて、無力な水草となった私はそこに浮かび、しずかに揺られている。ときおり起こるさざなみは、肌に当たって砕けた瞬間、熱くなったり冷たくなったりして、この場所がまったく物理法則に縛られていないことを示している。あらゆるしがらみから解放された気分だった。それでも、七時間というのは私の眠りのタイムリミットなのだろうか。数分と経たないうちに、脳にかかった靄は急速に晴れてゆき、現実がものすごい引力で私の腕を、足を、髪の毛をつかまえた。それにあらがって私は必死に、外界から流れこんでくる刺激思考その他もろもろを遮断しようとするけれど、気づけばあの、生まれる前を想起させるような原初的安心のある湖は消えていて、延々と続くまっしろな空間に放りだされていた。そこはたしかにまっしろだけれど、私をぐるりと取り囲むように見えない壁が屹立していて、ここからはもうどこにもゆけないのだと教えていた。私は一つの世界が終わってしまったことを肌で理解し、やるせない気持ちで体を起こした。

 それでも夢さえ見ずに熟睡したおかげか、多少気分が良かった。ストレスによって醜く脂肪が蓄えられた太ももや腹周りも常時ほどには気にならず、「まあこんなもんだろう」という間の抜けた感想にすべての挫折と諦念をつめこんで蓋をし、一張羅の真っ赤なワンピースを引っ張り出した。朝の日課として低用量ピルとチョコラBB、食欲を抑える漢方薬を、これ自体が薬なんじゃないかと思うほどに渋くなった昨夜のほうじ茶で押しながしつつ、SNSをチェックする。親友に送った短歌に感想が返ってきていて、わずかに気分が浮き立つ。しかしTwitterのDM通知を確認するとすぐさま地底にまで引き摺りおろされた。三件ともどこまでもくだらないナンパのような文言だった。長いこと出会い系をやってきたから、ツッコミどころのない挨拶文には吐き気がするほどうんざりする。存在するだけで誰かの興味を惹ける人間なんていない。「話しましょー!」で話せると信じられる思考停止具合、神経の図太さは一体どうやって成り立っているのか不思議だ。よもやそれで成功してきたわけはないだろう。相手に無視されようが冷たくあしらわれようが我関せず、己の精神世界は常に無風、といったアスリート並みのメンタリティを擁しているのだろうか。

 私はこうして、耐えきれない出来事に遭遇するとその原因をくだらないものとして捨象することで自分を保とうとしてきた。けれどそれを完遂するできるほどの強度があれば初めからこうした些事にくよくよしたりしないのだ。そして結局は自責感情の波にさらわれる。私はナンパ野郎と同列に、休日のデパートを元気溌剌に駆けまわる子どもも、恋人と繋いだ手を世界の全てに優先させて狭い道を一切譲ろうとしないカップルも、何でもないきっかけをこじあけて無理やり長話をはじめるコミュニケーションに飢えたご老人も、みんな嫌いだ。平たく言えば、性格が悪いんだろう。自分の行く手を阻みうるイレギュラーを極度に嫌悪している。私に言わせれば、「性格が悪い」というレッテル貼りも卑怯なのだけれど。何にせよ最低になった気分は不可逆で、こうなればもう私にとっては全身の毛穴にもれなく刺しこむ苦痛のみが真実だった。

 今日は新居の契約日だった。晴々しい節目に不適当な重たい足取りで家を出た。例のごとく猛烈な睡魔に押しつ押されつもんどり打っての死闘を繰り広げているとあっという間に事務所へ到着した。契約についての注意事項を聞き、不動産業者にうながされて書類の所定欄に粛々と記入・署名・捺印をしていく。鼠の足音一つしない日曜午前のオフィスビル地下。今隕石が落ちてきても私は気づかず作業を続けるのではないかと空想するほど滞りなく時間が流れた。そうして数十分が過ぎたとき、担当者が所用により席を外した。一応あたりを見回して誰も居ないのを確認し、マスクを外して息をつく。すると、ずいぶん呼吸が浅くなっていたことに気づいた。書類の山はまるで奴隷船のごとく小さな文字でびっしりと埋めつくされ、「あなたはこれに同意しましたよね。それならば…」と詐欺師風の丁寧な口調で一つひとつ言質を取ってゆく。紙束のむこうに存在するみえない契約相手が、有事の際に備えてかしゃんかしゃんとバトルスーツを装着している映像が脳裏に浮かび、その仮想敵に指定されているのが私であるという事実にめまいがした。そもそも、ここでいちいち詳細をあげつらう気にはなれないが、不動産の業態そのものがかなりグレーというか、もはやブラックと形容していいようなやり方が当然のものとしてまかり通っている。そして、それを黙認しているのは、不動産業界ひいては世の中全体だ。そこまで思い至ると、世の中というのがひたすらとてつもないものに思え、全身の力が抜けた。そういえば予備校業界に勤めていたときもそうだった。既得権益を守るためなら個人を貶めることも辞さない、という構えがありありと見てとれた。わずかでも油断を見せたらすぐに足元を掬ってしまおうと四方八方から波が押し寄せて、挑発するようにつま先を撫でていく。こんな場所を綺麗なままでは生きのびられない。砂と潮が私をべたべたのじゃりじゃりにしていく。

 契約を終えるとその足でデートに向かった。いつもの町の行きつけの居酒屋で食事をとることになっていた。ちょっと変わったおつまみと王道派の焼き餃子が売りの店だ。ここ一ヶ月、節約のため会うのは決まってサイゼリヤで、そろそろ飽きが来そうになっていた私にとって、嬉しい気分転換だった。けれど、店に足を踏み入れたとたん、今日の私にとっては少し厳しい選択だったと直感した。せまいせまい店内に溢れんばかりの酔客たちは、ひどく無遠慮に私たちに視線を投げかける。瞬間的に、無理、と感じていた。けれどそんなことをその場で彼氏に説明して店を変えようと提案するわけにもいかず、気丈をよそおい通された席につく。待機していた店員に彼は強炭酸ハイボール、私はジャスミンティーを頼み、乾杯をしてお通しをつついた。

 私は酒を呑まない癖におつまみの類が大好物で、当然居酒屋のメニューも大好物なのだけれど、来ると決まって少し悲しい気持ちになる。一人シラフで取り残される孤独感もあるが、それだけではない。他のテーブルが繰り広げる会話のスピード感というか、隙のなさについていけないのだ。店内の各所で、「ロールキャベツ系」とか「雰囲気イケメン」とか「バチェラー」とか「ヤリモク」とかいった語彙が飛び交って、この場所全体に強烈な磁場を形成しているように見える。時折、後ろのテーブルに座った男性と背中が触れあう。気持ち悪くて数度椅子を引いたものの無駄だった。潔癖症なわけではない。しかし、他人と肌が触れ合うことを気にもかけない、私とはまったくもって異人種である存在がすぐそばに居ることが怖かった。一秒後の瞬間すらコントロールできない不能感におちいってしまう。

 私はうまく言葉を紡ぎだすことができず、聞きたくもないのに勝手に耳に入ってくる会話の断片を、できるだけ価値判断しないようにとひたすらにテーブルの木目を見つめることに集中していた。すると彼氏が「女の子の友達といるときってどういう話するの?」と聞く。

「うまく話せないから、たいていコスメ情報とか運ばれてきた料理とかについて話してやり過ごしてる」
「男と話してる方が楽なの?」
「うん。多少見下してるから。あ、でもTのことは見下してないよ」
「みんな見下すなよ(笑)」
「そだね」

店内が騒がしい。

「でも、小さな頃から、女性らしさを下等なものとして位置づける言説のなかで育ってきて、せめて個人的な土俵で見下したりでもできないと、保ってらんない」
「そっか」

 新メニューの酸辣湯餃子が運ばれてきて、会話は一時中断になった。真っ赤でぎとぎとのスープに浮かんだ水餃子をながめる。無垢な魂がなすすべもなく地獄の業火に焼かれているようで、かわいかった。なんとなく、今もしかしたら泣けるかもな、と思っていたらすでに涙が出ていた。彼氏に「からいの?」と聞かれる。首を振る。「鼻が詰まってるの?」と聞かれる。こんなに突如として詰まるわけないだろ、と胸中で笑いつつ、首を振る。髪で顔を隠しながら、もやもやと浮かぶ卵の切れはじを箸でつついている私をじっと見て、「出よう」と彼が言った。レジにいくと、店員はまっすぐに彼氏をみて「現金ですか?カードですか?」と声をかける。私が「現金で」と答えると意外そうに目を見張りつつ「レシートは要りますか?」と続ける。ため息が出た。舌打ちをこらえ、苛立ちを隠し味程度に滲ませた声で「はい」と答える。

 彼氏は私をベンチに落ち着かせようとして、片方の座面が雨に濡れていたので躊躇した。私とちがって生粋の潔癖症なのだ。笑いながら、私がこっち座るよ、というと乾いた板に大人しく腰を下ろした。そして顔をのぞきこみながら「どうしたの?」と聞く。「どうもしない。発作みたいなものだから」と答える。「よし、それなら寒いし早く帰ろう。疲れてるんだよ」と立ちあがる。歩き出して、「居酒屋行くと少し悲しくなっちゃうんだよね」と自虐的に笑ってみた。店のグレードとかそういうことを気にしていると勘違いしたのか、「まあでももうあんな店も行くことないよ、時間できるし俺が作るよ」と答える。

「いや、なんかさ、ああやってワーっと話してる人たちには、その場しのぎみたいな感覚ないのかなって」
「その場しのぎ?」
「わたしは、生理前とか低気圧とかもめちゃめちゃ辛いし、親の私に対する気遣いやらラッシュ時間帯の電車内のギスギスした空気やらそういうのも悪い方向に引きずっちゃうし、次、次いつしんどくなるんだろうって常に考えながら生きてるから、今朝だって別に、気にしなきゃいいのに、悪意のないDMに傷つけられたような気分になって」

 俺が居るから大丈夫、とりあえずあったかいところに入ろう、と肩をだきながら、彼は近くのショッピングビルに私を引っ張ってゆく。幸福の度合いがおおきいほど、喪失感もおおきくなる。だから本当のところは、Tの存在が一番つらい。そういった言葉をのみこんで黙って明かりの方へ歩を進める。遭難しているみたいだった。彼氏は身体と精神が密接に結びついていると考える立場で、私が悩みを吐露するとまず物理的な安全性を確保してくれる。見当違い感がぬぐえない必死さがかわいらしいなと思った。閉店間際のユニクロを前にして服をみる気には到底なれない私たちは、エスカレーター前に所在なく佇み、地下に滑っていく黒いステップを見るともなく見ていた。がこん、がこん、がこん、がこん。一定のリズムに、幼少期、親が背中をたたいて寝かしつけをしてくれたことを思いおこす。すうっと気持ちが落ち着いてきた瞬間、彼氏が「こんなの見てるだけで鬱になる!」と停滞をやぶった。そして、いつの間にか握りしめていた私の指を一本ずつ剥がしていく。ひらかれた拳は真っ白で、しわくちゃで、指鳴らしの癖の名残りで関節がゆがんでいた。まるで出来の悪い粘土細工だった。彼は、丁寧に慈しむように、醜い中指を何度もなぞる。「そのままでいいんだよ」と目が伝えていた。普段は鼻につく「無償の愛」という言葉にひそんだ欺瞞が、今は気にならない。すすけた自動ドアの向こうには俗っぽいイルミネーションがぼやけていた。小さな町の夜のまんなかで、ゆっくりと静かに、純度の高い熱源が目をさますような気がした。

ちいさなクラッカー

 画面に並んだ彩度の高いフリー画像の数々。青空に向かって差しのべられた手のシルエット。真っ赤なマントをはためかせ太陽をながめる背中。淡いピンクの毛布にくるまれ、こんこんと眠りつづける子猫。画面をスクロールするたびに、私は軽く絶望していた。まあでも仕方がない。Webメディアが本業ではないのだから、多少の壊滅的センスには目をつむるべきであろう。と、自分に言い聞かせつつ「ご費用」のページを開くと、絶望は決定的なものとなった。初回75分1万円・通常50分1万円。べらぼうに高い。高いし、初回75分なら二回目以降はせめて60分だろう。病んだ人間の話なんて毎度丸一時間も聞いてられるわけがないでしょう、という態度が透けてみえていやらしい。せっかくだからカウンセラーの顔でも拝んでやるかと「スタッフ紹介」のページに飛ぶと、仕立てのいいスーツを着て、やたら脂ののったおじさんとおじいさんの中間くらいの生きものが、虚空を見つめて力強く微笑んでいた。バブル世代の人々は妙に肌つやがいいけれど表情の作り方に品がない。なんだかこれ以上ないくらいにばかばかしくなって、すべてのタブを閉じた。

 午前10時50分。次の季節の予感を背負った雲が重たく垂れこむ空の下、私は近所のカウンセリングオフィスを片っ端から調べていた。どうしようもなく話を聞いてほしい気分だった。否定せずに聞かれたかったし、あわよくば肯定してほしかった。不恰好な足取りで、どうにかこうにかここまで生きのびてきたその道のりについて。だからと言って、「話を聞くプロ」なんかを自称するどこの馬の骨とも知れない誰かに泣きつくのは、最初から不正解だったのだろう。物分かりの悪いおじさんに時代錯誤の説教をされるのは鳥肌が立つほど嫌いだけれど、物分かりの良いおばさんに「つらかったですね」なんて涙ぐまれた日には、無差別殺人事件でも起こしてしまうかもしれない。

 けれど、話の核を一言で表すなら、それはやはり紛うことなき「つらかった」だ。この二十年と少しのあいだ、私はずっとしんどかった。

 昔の記憶を掘りかえしてみても、出てくるのは嫌だと感じたことばかりだ。

 保育園。ぜんぶ食べきる前にごはんの時間が終了した。「わたし柿嫌いだからラッキー」と友達に言ったら、聞いていた先生に叱られた。アンラッキーだった。おゆうぎ会のソーラン節がうまく踊れなかった。一人だけ残され「もっと腰を落とせ!」と指導されたけれど、普通に言葉の意味がわからなかった。ある日Tくんとレゴをしていたら、知らない男の子がやってきて「Tくんはほんとはおれと遊びたいんだよ」と言った。やさしいTくんは分かりやすい困り顔を浮かべて、私と襲来者とを見比べるばかりだった。

 小学生。帰宅ルートにかまきりがいた。拾った。家の近くで猫もみつけた。可愛かったからかまきりをあげた。猫はかまきりを餌とみたのか玩具とみたのか、目の色を変えて仕留めようとしていた。こわくなって走って逃げた。ランドセルを下ろしてからも、かまきりが私の浅はかな好奇心のせいで死んだかもしれないと思うとおそろしくて、父の仕事部屋のドアを叩いて号泣した。運動会は嫌いだった。足は死ぬほど遅いし、暑いのも寒いのも疲れるのもばかばかしかった。練習中に「つかれたあ」と独りごちたら先生に「それはみんな一緒、わざわざ口に出さない!」と注意された。納得いかなかった。学校であったことを母に話した。「しゃべり方が気持ちわるい。やめて」と言われた。泣いたら悪い気がして、とりあえず薄ら笑いを浮かべた。

 中学生。あまり記憶がない。平和に過ごしていたのかもしれない。一度だけ、同じグループでつるんでいた子の気まぐれで仲間外れにされた。理科室へ移動するとき、一番の仲良しだった子は気まずそうに私を一瞥して、私の場所がなくなった輪のなかに小走りで入っていった。それだけ。

 高校生。一年のころは細胞がはじけ飛ぶように楽しかった。親友ができた。特進クラスだった。クラスで一番か二番目に可愛いと評されていたけれど、男子より女友達といる方が楽しかった。初めての彼氏とはマッドマックスを観てタピオカを飲んであっさり別れた。つきあってからべつに好きじゃないと気づいたのだ。そして受験生になる年の春、親友は留年して退学、音信不通になった。世界一崇拝していた相手がこつぜんと消えて、私は私を保てなかった。学力や学歴にすがるようになった。親に「人を見下すな」「お前はいつもえらそうだ」と必死に諭されても、私自身どうすることもできなかった。

 大学生。それなりに箔がつく大学の看板学部に入った。友達はできなかった。はじめこそ努力したもののみんなが同じ顔に見えていて、夏休みが終わり教室に入った瞬間、クラス全員の名前が抜け落ちてしまっていた。政治の勉強はつまらなかった。単位を落としまくって鬱と診断された。Tinderにのめりこんだ。知らない世界の人たちとつながっていると、なぜか自分はまだぎりぎり踏みとどまれているような気がした。死ぬほどダサかった。けれどインターンも弁論部の部長もやっていたから優秀だと勘違いされることが多かった。病気は理解されず、受験期にできた親との溝は深まる一方だった。

 こうして書きだしてみれば、ぜんぶ普通のことなのだ。私の身に起こったことは、誰だって一生に一度くらい経験しそうな範囲から外れない。けれど私は、非常にシンプルな人生の大前提を呑みこめないまま育った。嫌なことは一秒だってしたくないのに生きるためにそれが必要、という。みんな避けては通れなかった。可愛がったわりに一切懐かなかったハムスターの死も、心肺停止事故がおこらないのが不思議なほどに冷えきったプールも、なぜか「図」という字だけが覚えられず三回追試になった漢字テストも。そしてそれらをなんとかやり過ごした私が行きあたったのは、私の存在意義を根底から揺るがす矛盾だった。つまり私が居ることが、親の負担になっていること。

 小学生のころは、両親が喧嘩ばかりなのがただただ悲しかった。「りこん」がとにかくおそろしく、私がつなぎとめなきゃと割って入って飛び火を食らったりしていた。中学生になると、我が家の経済状況が傾いていることになんとなく気がついた。「Kくんは家で洗濯物たたみとお風呂そうじの当番なんだって」は「仕事で疲れ果ててるんだからちょっとは手伝いなさいよ」に聞こえ、「Nちゃんオール5なのに塾も行ってないらしいよ」は「努力でなんとかできることに払うお金はないわ」に変換された。それでもいい子になりきれなかった私は常に後ろめたさに苛まれつつ、でも自分の意志で生まれたわけじゃないのに何故がまんがまんで生きていかなきゃいけないんだという思いもあって、高校に入るころには一つの思想を織り上げていた。出産っていうのは、解決できない矛盾を生み落とすことなんだと。

 「生まれてこなければよかった」という言葉に出会ったのはいつだっただろう。まるで革命だった。自分が生まれない世界線なんて夢にも思わなかった。けれど、今まで思いつかなかったのが不思議なほどにしっくりくる。生きていたらお荷物。死んだら一生ものの傷。じゃあ最初から存在しなければよかった。パンドラの匣をあけた気分だった。「私なんか生まなきゃよかったのに」と思うことで自分の傷を舐める罪悪。嵐のごとく吹き荒れる自罰感情は、それまでと比較にならないレベルだった。幸せな未来図をえがいて子供をつくる決断をした若かりし父母を思うと、涙が出た。親をばかだと思う。子供を一人育て上げるのに二、三千万円かかるという。それだけの大金を払って、どんなモンスターを引き当てるかもわからないのに、決して途中で降りられない賭けなのだ。けれど若く美しくはちきれんばかりの力をもった二十代が拡大レンズで希望をみてしまうことを誰が責められるだろう。自分をばかだと思う。親を恨むことのみが思考停止する方法だった。親への憎悪がまた自分自身を痛めつけることを知っていても、すでに万策尽きていた。

 親は私の様子がおかしいことに気づいていて、「不満があるなら言ってよ」と何度も問いただした。けれど、彼らが私にする八つ当たりなどは世間一般で許される範疇のもので、しかもそれが仕事や子育てのストレスに起因していると知っていたら、伝えられるわけがなかった。たまに我慢しきれずに「こういう言動に傷ついた」と話すと、「被害妄想だ」と怒鳴られる。親として、大人として間違った反応だと感じつつ、私が傷つくことによって彼らも傷つくということを再確認するには十分な出来事だった。そうして、私が我慢すればすべて丸くおさまるという考えのもとに編まれた〈いのちだいじに〉作戦は、しかしまったく通用しなかった。昭和生まれの父母は、趣味はサブカル寄りのくせして、「拳で殴りあえば全員友達」的世界観に生きている。だから本音をぶちまけあってぶつかりあうことは彼らにとって必須なのだ。住む世界が違う。私のもつ刀に柄はない。相手に一太刀浴びせようと握りしめればたちまち、己の手のひらもずたずたになる。

 しかしそんな苦闘の日々も、そう遠くない日に終わりを迎える。三月一日に引っこすことが決まった。待ち望んでいた一人暮らしだ。今朝初期費用を振りこみ、ついでに必要なものを二、三買い足した。シーツ、うがいコップ、米びつ。シーツ、うがいコップ、米びつ。呪文のようにとなえながら歩く道には、すでに桜の香りが漂っているような錯覚におちいる。感傷に浸りたくはなかった。私は結局さいごまで彼らと真っ当に向き合えなかった。センチメンタルになる資格はないはずだ。それでも、ここ数年の時間がまとまりをもって、夢のようにふつふつと甦ってくる。

 2019年末、コロナ禍がはじまった。多くの人が物理的にも精神的にも分断され、錯綜する情報の洪水のなかで、一人ひとりが試された。何の試験の時間なのかさえわからないまま、自分を信じてかきわけるしかない日々だった。汗ばむ陽気にいい加減マスクが鬱陶しくなってきたころ、三浦春馬が死んだ。同時に、母の挙動がおかしくなった。三浦春馬の死亡は他殺によるものだったと、気味の悪い配色におぼつかない日本語でつづられたブログ記事をいくつもLINEに送りつけてきた。食事中のテレビは慈悲なく消された。洗脳されるからだそうだ。会話の種が摘まれたことにもまして、その異様な空気が私たちを寡黙にさせた。母と同じ寝室の父は、朝から晩までいわゆる陰謀論のひな形を念仏のようにくりかえされて、気が狂いそうになっていた。テレビはついに布をかけられ封印された。目に入るだけで集中が削がれ脳に悪影響があるらしい。明らかに人が変わっていた。そんなのはおかしいと説得しようとすると、ぎらついた目で「うるせえ黙れ!」と叫んだ。そんな暴言を吐く人ではなかった。しかし私はこの状況をそれなりに受け入れていた。むしろ愉快にすら思っていた節がある。ありきたりな悲劇の筋書きに沿ってとんとん拍子に進んでゆく日常を小気味よく感じた。母が仇役を演じてくれるなら、私は被害者でいられた。母が大いなる悪に支配されているなら、私は戸棚の上でふわふわと舞う罪なき埃に過ぎなかった。

 しかし、台風が突如として消滅するように、母の病は突然引いた。アルコール消毒すら拒んでいた彼女がワクチンの摂取率の報道をみて、「どうして打たないんだろうねえ」などとのたまっていた。呆気なさすぎる幕切れに笑うしかなかった。少し前に「電磁波が危ない」などといってネット断ちをしていて、ついに来るところまで来たなと思っていたけれど、怪しげなサイトたちと距離を置いたおかげで頭が冷えたのかもしれない。陰謀論が自浄作用をもったプログラムだとは知らなかった。こうして一つの特別公演が終了し、私たちはごく平凡な家族としてそれぞれの役柄に戻っていった。大きな波風はなくたんたんと、弟の受験、私の就活等のイベントが訪れてはまた去っていき、とうとうこの家を舞台にした終章がやってきた。

 先週、物件が決まったことを親にLINEで報告した。前から三月には家を出ると伝えてあったはずなのに、今さら知ったかのような反応だった。父は、近いから自転車通勤にできるねと、自転車通勤のメリットを五個も十個もあげつらっていた。母は住むあたりを調べて、「商店街があって銭湯とかもあっていい町なんだよ」としきりに父に宣伝していた。そして二人とも、何度も何度も「もうすぐなんだね」と目を見ひらき、かろうじて持ち上げた口の端から漏らしていた。二人を安心させたくて、一年前の春ごろからずっと準備していたことを告げると、「しっかりしてるなあ!」と口をそろえた。

 夕飯後、父はいつも通り自分の居室へ引き上げた。母は、リビングで何をするともなく、幾度となくため息をついていた。たまに我に帰ったように、「つみたてNISAやったほうがいいよ」と唐突な提案をしたり、「荷ほどき手伝いにいこうか?迷惑じゃなければ……」とうつむいたりしていた。荷物量は最低限におさえていたため一人で片づけてもさほど時間はかからないはずだったけれど、言葉に甘えることにした。引っこしの翌日に部屋を見にきてもらい、近所のお店で家族そろって食事をとる相談をした後、母はしばらく黙りこんで部屋を出ていった。かと思うと、数分足らずで戻ってきた。そして、今日初めてこちらを見て、「おめでとう!」と言った。クラッカーが弾けるごとくに高らかな発声だった。目は真っ赤に充血していた。そのままの勢いで、「ちょっと抱きしめさせて」とソファに座る私に倒れこむ。四人暮らしには手狭なこの家のリビングは、いたるところに物が置かれているため、斜め左からの不恰好なハグになった。母は本当に小さかった。歳のせいではない。化粧をして出かける朝は、娘の私がどきっとするくらいに綺麗だ。もともと身長が143cmしかない。143cmしかないのに、とてもとても気が強い。人を傷つける言葉遣いがうまい。もしかしたら、小さいがゆえに身につけた武器なのかもしれない。私は余裕のあるふりをして、ゆっくりと母の背中をさすった。その晩は寝つけなかった。誰のせいにもできない夜は、二十年間で一番つらい。深夜、階段をおりていくと明かりがついていて、母が一人ソファに座っていた。声をかけてはいけないと察し、そっと自室に戻ってまんじりともせず朝日を待った。

 かけちがいとは、最後のボタンまできてようやく気づくものである。さらに残酷なことに、それは選択を誤りつづけた結果ではない。たった一つのずれがフェータルになる。私と親との軋轢も、きっとはじめは些細なささくれ程度のものだったのだ。それがそのまま修正されず、とうとう巣立ちのときまで引っ張られてしまった。しかし、人生をシャツを着ることにたとえるのならば、人の一生は宇宙の歴史とでもいうべき規模だ。

 最近、カリフォルニアの動物園でコンドルが処女懐胎したというニュースが流れてきた。これももしかしたら、神様の犯したちょっとしたミスなのかもしれない。けれど地球は今のところ秩序をたもっている。空からあらたな時間が降ってきて、過去の時間はぐんぐんと押しながされてゆく。ささいな成功も失敗も、きっとこの壮大な流れのなかに吸収される運命なのだろう。だからきっと大丈夫。すべては帳尻が合うように動いている。そう信じて、私は来月家を出る。

向日葵の葬式

 今日、八月二日は父方の祖父の葬式だった。私は祖父が苦手だった。底抜けに良い人で、彼と話していると、虫歯みたいに染みついた自分の汚さが目につくから。
 幼少期、祖父が竹筒を割って流しそうめん機を作ってくれた。真っ直ぐな竹の滑り台に水とそうめんを流すシンプルな構造のもの。猛暑日で、それほどそうめんを好きでもない私と弟は、微妙な反応だった。そんな反応しかできないことに罪悪感も覚えていた。その時の写真が残っているわけでもないのに、強い日差しに目を細めて、不機嫌半分戸惑い半分の顔をする自分たち兄弟の顔がありありと思い浮かぶ。祖父はたしか大工のような仕事をしていて、ものづくりが得意だった。謎の工具がいっぱいに積まれたトラックを持っていた。私が中学生くらいの時分には、一階の床に穴をあけて掘り炬燵なんかを作っていた。マンション住まいの私と弟は、木造で土壁の二階を珍しがって、一旦上がるとなかなか彼の居室におりてこなかったから。
 昔はタクシードライバーでもあった。運転が好きで、祖母にはたしか一目惚れで、突然タンデムに誘ったらしい。私たちのことも、よくいろいろなところに連れて行ってくれた。どこかの山の中腹のつめたいつめたい湖は、数少ない楽しい記憶のひとつだ。透き通った水でスイカを冷やしてみんなで頬張った。勝手に塩を振られたのは、ちょっと訳が分からなかったし嫌だったけれど。
 冬の浜辺もよく覚えている。静岡の海は大した透明度もなく、「海ってぜんぶが綺麗なわけじゃないんだ」と知ったのはほかの子に比べて早かったんじゃないだろうか。黒い砂が混じり、大きなべろべろの昆布がところどころに敷かれていて、小型恐竜くらいある流木だけが美しかった。とにかく風が強くて、お姫様に憧れて伸ばしていた髪は一瞬でじゃりじゃりになった。世界の終わりみたいだと、当時感じたわけではないけれど、思い返せばそういう気分だった。
 あれは祖母が死んだあとだろうか、その前だったか、「もう長くは運転できないだろうから最後に」と祖父が静岡から東京まで車で送ってくれた。どう思ったかは覚えていない。乗り換えが死ぬほど嫌いだったから、多少は喜んだのだろうか。父はとにかく怒っていた。静岡で生まれ育った割に父はなんとも繊細で都会的な人だった。少林寺拳法を習っていたと聞かされた時は意外に感じたけれど、絵が上手で内気だった少年時代の父が、いじめられないようにとかいった理由で、なかば強制的に通わされたんじゃないだろうか。
 彼は、野暮ったい形で発揮される祖父の思いやりをとにかく憎んでいるようにみえた。花火大会に出かけたときに、薄暗がりのなかでせかせか気を回そうとする祖父に本気でキレて、宥めると「わからないんだから黙ってろ」的な怒号を飛ばした。普段の父は声を荒げたりしないので、ショックだった。母も田舎が嫌で上京してきた人だったために、終始気まずそうな痛々しい顔をしていた。愛憎は混じり合って共存するものだと私が知るのは、ずっと後になってからのことだった。

 最後に祖父に会ったのは、一昨年の夏休みだっただろうか。親と弟は都合がつかなくて、私が一人向こうに顔を出すことにした。確かその前の夏もそうだったから、家族が最後に祖父に会ったのはいつなんだろう。同じ静岡県内に住む母方の祖父母の家に滞在して、最後の日に祖父に会いに行く予定だった。
 母方の祖父母は孫のために何かをしてあげようと意気込むタイプではなく、逆に接しやすかった。けれど、久々に会ってみると、「今のふしだらな皇室についてどう思うか」だとか「韓国人はダメだ」だとか滔々と並べ立てられた。虚無感や落胆、田舎への嫌悪感、そして「人は誰でも老いる」という素朴な発見で心のなかがごちゃごちゃになった。すると、今まで木に求めなかった身の回りのものすべてに、体毛一本一本を逆撫でられるような心地がした。風呂場の鏡にはなぜか大きな黒い足跡があり、シャワーを出すときいきい耳障りな音が鳴る。タオルやコップはすべて、めだかの水槽のような匂いがする。町全体は潮風にのって流れてきた養豚場の臭気に包まれているが、移動をしない住民たちはそれに気付いていない。ストレスの限界で、夜中にひどい蕁麻疹が出た。父に相談したら、父伝てにそれを聞いた母が私に謝ってきた。おかしな気を遣わせたくないからわざわざ父に言ったのに。父もきっと老いたんだ。
 そんなことの後だったから、私はもはや飽和状態だった。最終日に、祖父が当時住んでいたマンションへ重い荷物を持って向かう。人もまばらな炎天下で、アスファルトから照り返す日光がただただ苛立ちを募らせる。やっと祖父の家に着いた頃にはすでに精魂尽き果てて、不機嫌で無口な私と、祖母が死んでから一層足を悪くした祖父だけが残された。出されたお茶とお菓子を口にしつつジリジリと時間をやり過ごし、やがて新幹線の時間があるからと席を立った。祖父は何度も、駅の近くの金券屋を使えば安く帰れると繰り返した。頼みの綱がそれしか残っていないみたいだった。車で私を送れないことをしきりに残念がっていた。私は、こだまの車窓から富士山を眺めつつ、眠りの波に呑まれてしまうまで「会いに行くだけマシなんだ」と自己弁護を続けた。

 今年の梅雨入り前、祖父が倒れる。玄関先で動かなくなっているのを友人に発見されたらしい。意識を失ってから二日ほど経っていたが、奇跡的に助かったとのこと。コロナ禍で会いにいくことはできず、父から何度か夕方のニュース番組のように経過報告があって、あとは何気なく日々が流れていった。容体が急変したのは七月に入ってからだった。
 病院に行くことは依然叶わなかったけれど、看護師さんの配慮でテレビ電話が繋げられた。父の仕事用の大きなデスクトップパソコンに、骸骨のような祖父が映し出される。余った皮膚が大きく波打っていて、なんとなくトロールという単語が思い浮かべた、それがどんなものかもよく知らないのに。父と母は、まるで介護士みたいな口調で祖父に話しかけている。「こっちは、げんきでやってるでね!」「あいにいけないけど、がんばってね!」「いってること、わかるら?」わざとらしい方言がベッタリと耳に残る。私と弟は、このとききっと同じ気持ちだった。促されても何も言わず、こわばった笑顔でただ手を振った。

 私たち兄弟は、そろって過剰適応の子供だった。小さいころ、近所の人にお小遣いをもらったときに、私は笑顔でありがとうを言った。弟は私に「遠慮しなよ!」と怒った。その場では口を噤んだが、胸のなかで「子供は素直に喜んだ方が大人にとっては嬉しいんだよ」と弟に諭していた。
 反動なのか、私は場に応じた振る舞いのできない人間に育っていった。マナーや儀式なんて糞食らえだと思っているし、高校には派手な私服で通学していた。真っ青なニットに真っ赤なミニのタイトスカート、ピンクの水玉ワンピース。到着するのはいつも昼過ぎで、友達なんて居ないに等しかった。授業中も休み時間も小説のページに目を滑らせながらやり過ごした。そしていつの間にか、たった五分間の画面越しの面会ですらも、可愛い孫を演じられない自分になっていた。
 ビデオ通話から二週間ほど経った深夜、父の携帯が鳴った。私と母はそれが訃報だと知っていた。

 今朝、体温を測ると熱があった。三十七度二分。大した発熱ではなかった。大方昨日の夜更かしのせいだろう、体調は悪くない。けれど先に静岡に行っている両親にそれを伝えた。なし崩しに葬式には出ない方向に持っていった。
 申し訳程度に皿を洗って服を畳むと、部屋に籠って小説を読んだり、図書館で借りた数冊の写真集を眺めたりしていた。夕方には生理前の猛烈な睡魔に襲われた。ほとんど抵抗もできず眠りに引きずりこまれ、夢のなかで何度も凶悪犯に殺されたりした。
 十八時ごろに、弟が帰ってくる。顔を合わせづらく、何か食べたいものはあるか、買ってこようかとLINEを送ろうとしたら、弟がメッセージの送信を取り消した痕があった。それでなんとなくリビングに行くと、シャワーを浴びた弟が寝そべっていて、「お弁当があるよ」と教えてくれた。思ったより、というかカンペキなまでにいつも通りだった。むしろ機嫌が良いようにも見える。「なんか豪華な駅弁だね」と言うと、「ああそれ駅弁じゃないんだよね。火葬場でもらったやつ」と答えられ、しまった、と思う。
 私は急に、小学生のころに自分が放置していた上履きを、弟が洗ってお小遣いをもらっていたの思い出して、目の前が夕焼け色に染まった。休日の十七時過ぎに目が覚めて、散らかった部屋に西日が満ちているのをぼーっと眺めているような気持ちだ。水を飲もうとコップを出して冷凍庫をあけると、氷がなかったから弟に作り方を聞いた。
 六つ下の彼は、私と違って掃除も料理も宿題もやる。部活だって友達作りだってできる、カンペキ人間だ。それなのに、親や先生の脆弱さまで受け入れている。理不尽に叱られようが振り回されたりはしない。学校の成績は悪いけれど、どうしようもなく大人だ。私は世界一彼を尊敬している。真っ赤に燃える夕焼けの心のなかで、絶対にお前を幸せにしてやるぞ、と誓う。救いようのない姉だ。
 ふと、弟のしゃんとした背筋が、向日葵に似ていることに気づく。祖父も、あの太陽の花にそっくりの屈託ない笑顔を咲かせる人だった。こんな結びつけには何の意味もないとわかっている。けれどどうしようもなく結びつけてしまうのが人間で、どうしようもなく私たちを喜ばせようとしてくれたのがおじいちゃんだった。自我が芽生えると、おじいちゃんの優しさは煙たくなった。祖母が死ぬと、おじいちゃんは小さく可哀想な存在になった。おじいちゃん自身が死ぬと、私とおじいちゃんはもう一生会えなくなった。そしてきっと、幼い私も今に死ぬ。おじいちゃんと私の関係は、私が生きつづける限り、絶え間なく変化する。それだけのことだから、今はまだ悲しみは要らない。

おとなのふりかけ

 今日は中学時代に通っていた塾の先輩と約束があった。彼女は今、東大の院でプロジェクトに参加していて、研究員として日夜、シャーレのなかのみえない何者かとたたかっている。休みは週に一度あるかないかという多忙さなので、向こうにあわせて御茶ノ水へ出向くことになった。

 かれこれ十年来の知己だ。神経質で、待ち合わせに必ず余裕をもってくる性格は熟知している。だから遅刻常習犯のわたしも運命にあらがわんばかりの覚悟でいそぎ家を出て、十分前行動に成功した。が、改札を出ると、やはり彼女の姿はすでにそこにあった。品のいい水色ニット、スリットの入ったスラックス、そしてパンプスにおおぶりのイヤリングという良い女すぎる出立ちで、どこまでも颯爽と立っていた。

 久しぶりの再会で、多少ぎこちない空気をごまかすように、何食べようかと相談がはじまった。凍てつくほどに寒い夜だったから意見の一致に時間はかからず、もつ鍋に狙いを定めて歩き出す。肩慣らしタイムはまだつづき、次に話題にあがったのは、受験時代の仲間たちだった。Mくんはどうしてるのかな。R先生は誰も連絡とってないよね、今ごろ孤独死してないか心配。やっぱり最後まで嫁きおくれるのは私かTちゃんかな。

 思えばあの頃は、本当に不思議な時間を共有していた。公立小中出身でワンコインの小遣いのやりくりのほかは頭になかったザ・庶民派の私も、床も壁も調度品もまっしろな豪邸に生まれて、重すぎる圧からメンヘラになり、やがてギャルへと華麗な転身を遂げた女の子も、漢文でラブレターを送りあっていた東大生講師のカップルも、偏差値32から医学部を目指すボンボンも、みんな一緒に笑っていた。受験という大きな壁の前でわたしたちは、完全に人間性を排される。だからこそ、何者でもないじぶんたちとしてまっすぐ語りあえたのだ。

 北風にうつろに揺れているイルミネーションを横目に十分ほど歩くと、先輩の行きつけのレストランビルに着いた。しかし、目当ての店の前には入り口をさえぎる形で看板が置かれ、営業中かどうか怪しい。
「今日はやってないのかな」「一応みてみようよ、中明るいし」
白木の格子の引き戸をあけると、活気に満ちた様子の店内が目の前にあらわれた。しかし安心もつかの間、「本日は予約で満席です」と宣告され、すごすごと引き下がる。出口の見えない冬後半戦、誰も彼もが必死で暖をとりながら、血眼になって「春の気配」を探している。

 仕方なく私たちは、同じビル内で手ごろな店を探した。ホットな汁物への希求は捨てきれず、目をとめたのはスンドゥブ・チゲ屋。「ここにしよう」と言いかけて、道中の会話のなかで交際相手が韓国人であると伝えていた私は、「男にかぶれているな」と思われるのが嫌で躊躇した。しかし先輩は当然、こちらの卑小な葛藤などはどこ吹く風で、「ここ良さそうだね」と先導した。店内は先ほどの博多居酒屋と打って変わって閑散としていた。初々しいカップルが紙エプロンをつけ、律儀にもパーテーションごしに微笑みあっており、ほかに客の影はない。

 案内された席につき、先輩はおそるべき早技でメニューを確認すると、二枚重ねの上着とマフラーを脱いでやっと一息ついた私を見やって、にやりと口角を持ち上げた。人差し指の先に視線を落とすと、「特製!博多もつ鍋風スンドゥブチゲ」の明朝体が踊っている。そうだった。この人のこういうところなのだ。一見隙のない女に、これほど簡単にふところに飛びこまれたら誰だって、と思う。一般社会と隔絶したお嬢様ばかりが集まる女子校で育った彼女の所作の一つひとつを眺めていると、「無菌培養の功罪」という見出しが脳裏にちらついた。

 注文をすませ料理が運ばれてくるまでの間に、話は過去から現在、未来へと移り変わっていった。はじめにつっこまれたのは、目前に迫った引っこしのことだった。もう半月も経たないうちに私は、「はじめての一人暮らし!」ではなく「はじめての同棲!」を開始する。四人暮らしから二人暮らしなのだから、私としてはまあ穏当だろうという感覚なのだけれど、世間にしてみれば一足飛びにみえるようだ。そのうえ稼ぎ頭は彼氏より七つも年下の私だというのだから、周囲のゆきすぎた心配も無理からぬことだろう。

「いやあ大変なんだよ、やっぱり人生の節目節目で差別って浮き彫りになるよね。外国籍入居不可のところが多くてなかなか良い物件がみつからないの」
「……だろうね。ていうか親にはちゃんと言ってるの?」
「お母さんには。お父さんには内緒にしてる」
「終わったな(笑)」
「大丈夫だよ。私が稼ぐんだから嫌になったら実家に帰ってもらえばいいし。何の問題もないよ」
「いやヒモじゃん!(笑)本当に心配だわ〜。私の妹も年上の韓国人とつきあってたんだけどさ、この前泣いて電話してきて、『脱毛しないと別れる』って言われたって。そんなやつ今すぐ捨てなさいって言ったんだけどあのメンヘラは今頃より戻してるんじゃないかな」

 そんな話と一緒にしないでよ。と内心で思ってすぐに、性質としては一緒かもしれないな、と打ち消した。私と彼氏は、家庭に居場所のない者同士、幼少期に負った傷を癒せないまま大きくなった者同士として出会い、恋をした。日本全国の大学生カップルの例に漏れず、自分たちは少し特別なんだという思いを抱きながら。青くさい幻想だという自覚はある。けれど私はまだ、過剰なまでに個性を求められ、逆説的にすべての人間が無個性化していく、そんな社会からの逃げ場として機能する恋愛しか知らない。自分を諦めることが大人になるための洗礼なら、大人はどうやって人を好きになるんだろう。誰かを好きな自分をどうして維持していられるんだろう。どうして。ずぶずぶと降りつもるやるせない苛立ちに窒息しそうになり、つい口を滑らせた。

「そんな人じゃないよ。もうつきあって一年以上だし、結婚の話だって出てるもん」

 先輩はさっと膝に目を落として一言、「はやいよ」と切り捨てた。しまった。そう思うよりはやく、手足の血が冷えていく。同時に、この人はここまで綺麗に拒絶の声音をだせるのかと場違いな感心をしていた。塾にいたころは常に屈託なく振るまいつつ、誰も傷つかない空気作りに影で腐心しているように見えたから。

 その瞬間、雪崩を打つように違和感があふれた。久々に会った先輩に、少しのゆらぎも見てとれないことへの違和感。私はそれを、心から愛せる仕事に打ちこんでいる人ならではの強度だと思っていた。けれど、「芯が通っている」という言葉だけでは捉えられない何かがあるような気がした。

 今日彼女の口からこぼれたエピソード──自力で組み立てた自転車で走っていたらハンドルが外れたこと、研究発表前にはアドレナリンが出て四日間も徹夜してしまうこと、周りがぞくぞく結婚していくなか自分はぜんぜん恋人をつくる気分にならないこと、最近の一番の悩みは布団カバーがずれること。それらすべてが、彼女のキャラクターの裏づけになっていた。有能で、育ちがよくて、ちょっぴり天然。もちろん先輩に演じているつもりはないだろう。疑いをもたずただ粛々と、彼女は彼女を生きているのだ。

 そして一つの考えに行きあたった。今目の前にいるこの人こそが、「大人」と呼ばれるやつなんじゃないのか。だとしたら。

 先週、同じ塾に通っていた男子と海鮮丼を食べにいった。私の就職祝いだった。海鮮丼を食べて、原っぱの敷かれた小綺麗なビルの屋上で駄弁っていた時に、彼が先輩に恋していると知った。三つ下の元カノの幼さを愚痴る彼に、冗談のつもりで「先輩とつきあわないの?」と口にした。すると「まだぜんぜんいけるかわからないけど、次の日曜にドライブ誘った。なんか展望台がみたいんだって」という答えが返ってきて心底衝撃を受けた。大したことではないのかもしれない。けれど、リアルのコミュニティで出会って友人として深めてきた関係が、急に恋愛回路に切り替わる現象が、私にはいつも理解できないのだ。いつも蚊帳の外で、気づいたら誰かと誰かがあんなことやこんなことになっていて、私一人がまるで並行世界にでもまぎれこんでしまったかのように、淡々と色気のない日常をやっている。

 まだ二の句をつげないでいる私に彼は、「先輩ぜったいタバコとか嫌いそうだよね。おれ運転中ぜったい吸いたくなっちゃう」と悩んでいる。雲一つない屋上で、かすかに芝と汗のにおいが混じるなかで、シルバーの指輪を三つもはめた青年が淡い想いを吐露していた。

 猫舌な先輩はゆっくりゆっくりと最後の肉片を押しこみ、口直しにジャスミンティーをふくんだ。その濡れたくちびるに目を奪われながら言ってみる。
「Mくんって恋愛相談はおばあちゃんにするんだって。それで前、『人生は長いんだから』って言われたらしいよ。すごい説得力で参っちゃったって(笑)」
先輩は、かわいい男が好きだ。それも彼女が丁寧にひいた線の内側のことかもしれないけれど。恋は盲目であり、逸脱だ。それなら今のMくんに勝ち目はない。彼は先輩の先輩らしさを一番に引き出してしまう。

 私はモテないけれど、片思いをしたこともない。出会い系で波長の合う人とつきあうからだ。だから彼が先輩に振られたら、実際それはどれくらいのダメージなのか、彼の心は、先輩の心は、二人の関係は修復されうるものなのか。それともそもそも恋愛は亀裂を入れたりせず、一時的な気まずさも時間に解決される類のもので、結局残らず良い思い出に変換されるのか。全部が全部なるようになるのか。何もわからない。わからないから、「チョコもらった!」と無邪気にはしゃぐ彼に「わたしは友達が少ないから、先輩もMくんもしあわせになってほしいな」と返信した。

 すぐに携帯が振動し、バナーで内容を確認する。
「おまえにそーゆーこと言われるのめちゃ嬉しい笑笑」
あとには、浮かれた絵文字が続いていた。ひらかないままスマホを置いた。