神様のおしのび

 商店街の中心に位置するこの部屋は、真夜中でももやもやと明るい。窓から手の届きそうな位置に街路灯があり、セブンイレブンは24時間休まずに、業務用冷凍庫のような仄青い光を道路に漏れさせている。越してきた当時は、この明るさに戸惑った。寝付くのにずいぶんと難儀して、部屋選びのポイントはつくづく多い、と感じ入ったものである。
 
 それが今や、日の変わる一時間前には必ず消灯して、朝の九時までたっぷりと寝る優雅さを獲得した。パートナーの手料理で心を満たし、過食嘔吐の繰り返しから卒業した。風呂場で一日の垢を落とすことなく布団に入る頻度もめっきり減った。なんとなく今日は目が冴えている、という晩にも、無暗にPCをひらき、広大なネットの海をさまようなんて真似はしない。おとなしく寝具のすきまにおさまり、ときおり通る車のヘッドライトが映しだす、裸木の影絵をながめている。
 
 そんな日々のなかで、しかし私は、かくじつに衰弱している。名前をもった器官が病んでいる訳ではない。ただ、私の体をまとまりのあるものにしていた何かが機能しなくなってしまったのだ。たとえば歩いている時、足だけが正しくうごいている感覚がある。接着のゆるくなった胴体は、石膏像のようにごとんと落下して、まっすぐな足だけが右、左、右、と規則通りすすんでゆく。陽に透ける道路に横たわった胴体は誰にも気づかれず、商店街を往来する人々の会話が、プールのさざめきのようにさらさらと頬を撫でては過ぎる。そんな白昼夢のような時間が耳鳴りのように、ずっと私の脳裏を流れている。
 
 原因はよく分かっている。扶養を抜けてからというもの、私の日常は、舌を巻くスピードで数字に浸食されていった。たとえば、値札をみずに菓子を買うことはなくなった。目覚ましをかけずに居眠りすることもなくなった。次の生理までの残日数を把握するために、カレンダーをなぞらない朝はなくなった。そうして私にかかわる何もかもが、大小さまざまな単位を、洋服のタグのごとくひらひらとぶら下げている。すこやかさを獲得していく暮らしの様子と裏腹に、せなかのタグは絶え間なく肌を刺す。いつか、ラジオで科学者に「世界は朝からはじまったの?」と聞いた少女がいた。むず痒さに邪魔されて、輪郭を得られないまま闇へと溶けてゆくのは、まさにこういった疑問だろう。それはつまり、ループする運命に突き立てる、墓碑のような問いのことだ。あらたな地平は、物語は、文章は、いつだって破れ目にこそ生じる。
 
 だから私は、短歌を選びなおした。終わらない息切れのような社会生活のなかで、この文芸の無責任さにあらためて惹かれた。問いを引き受け、答えを追求する。そんな高尚な営為を引き受ける余裕を、今の私はこれっぽっちも持ち合わせていない。かたや短歌というものは、ほんとうに自己中心的なのだ。秀作と呼ばれる短歌には、突き抜けた切実さがある。物事をある一つの視点から記述し、ほかの視点は捨象する。もちろん、作中主体の考えや感じ方についての冗長な裏付けなども行わない。たった三十一音の枠の中で何かを伝えようとすると、そうせざるを得ないのだ。そんな言葉足らずで言い切りの作品に対して、私たちはしかし、いくらでも批判が可能だからこそ、逆に切りこみ方を見失う。ちょうど、犯罪者の手記が支離滅裂であるほど、それが彼にとっての真実なのだと痛感させられるように。この世の責任という責任から逃れたい私は、そんな短歌の海にきらめく酸素を見出したのだ。
 
 それでも、エゴイスティックな作品を制作しつづけることは、それ自体が一つの思想の表明になるだろう。それは、個性賛美の思想だ。とはいえその個性とは、一般に考えられているような、風変わりな一芸だとか、生きづらさの原因だとかではない。普段は言葉の裏側にその身をじっと潜めているものだ。
 
 そもそも、人間は刹那的な存在で、一貫性などというものはすべて後づけでしか有りえない。あるときは現実に生き、あるときは幻想に生きる。自らを取り巻く世界も目まぐるしく流転する。そんななかにあって、歌を詠むとは、目の前のものに全神経を尖らせ、言葉を生け捕りにする。そして、作品のなかに一回性をもった秩序を築くことだ。一点集中。それは、文脈を持った存在としての人間から、作品を切り離すことではない。作者から剝ぎとられるのは、集合としての無意識だ。万人に通じる言語を手放してはじめて、作者の魂がほんとうの形を取り戻す。まさに、個性が目に見えるものになる瞬間だと思う。個性は翻訳可能なものではない。祈りとも言える言葉の積みかさねのすえに、まるで神様のおしのびのように、一瞬間ひらめく奇跡なのだ。

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  午前九時。昇りかけた日の光がすだれの隙間から差しこみ、ようやく目を覚ます。頭の片隅でRe: Re: Re: Re: Re:……とアラームに似た悲鳴が鳴っていて、今日もまた、昨日までの複製のような一日が始まるのだと予感する。

 そんなときに短歌の存在は、毎秒犯されつづける四捨五入のあやまちに、そっと赤を入れる。そして読み替えるのだ。今この瞬間に私が私である偶然を、ひとつの奇跡として。