向日葵の葬式

 今日、八月二日は父方の祖父の葬式だった。私は祖父が苦手だった。底抜けに良い人で、彼と話していると、虫歯みたいに染みついた自分の汚さが目につくから。
 幼少期、祖父が竹筒を割って流しそうめん機を作ってくれた。真っ直ぐな竹の滑り台に水とそうめんを流すシンプルな構造のもの。猛暑日で、それほどそうめんを好きでもない私と弟は、微妙な反応だった。そんな反応しかできないことに罪悪感も覚えていた。その時の写真が残っているわけでもないのに、強い日差しに目を細めて、不機嫌半分戸惑い半分の顔をする自分たち兄弟の顔がありありと思い浮かぶ。祖父はたしか大工のような仕事をしていて、ものづくりが得意だった。謎の工具がいっぱいに積まれたトラックを持っていた。私が中学生くらいの時分には、一階の床に穴をあけて掘り炬燵なんかを作っていた。マンション住まいの私と弟は、木造で土壁の二階を珍しがって、一旦上がるとなかなか彼の居室におりてこなかったから。
 昔はタクシードライバーでもあった。運転が好きで、祖母にはたしか一目惚れで、突然タンデムに誘ったらしい。私たちのことも、よくいろいろなところに連れて行ってくれた。どこかの山の中腹のつめたいつめたい湖は、数少ない楽しい記憶のひとつだ。透き通った水でスイカを冷やしてみんなで頬張った。勝手に塩を振られたのは、ちょっと訳が分からなかったし嫌だったけれど。
 冬の浜辺もよく覚えている。静岡の海は大した透明度もなく、「海ってぜんぶが綺麗なわけじゃないんだ」と知ったのはほかの子に比べて早かったんじゃないだろうか。黒い砂が混じり、大きなべろべろの昆布がところどころに敷かれていて、小型恐竜くらいある流木だけが美しかった。とにかく風が強くて、お姫様に憧れて伸ばしていた髪は一瞬でじゃりじゃりになった。世界の終わりみたいだと、当時感じたわけではないけれど、思い返せばそういう気分だった。
 あれは祖母が死んだあとだろうか、その前だったか、「もう長くは運転できないだろうから最後に」と祖父が静岡から東京まで車で送ってくれた。どう思ったかは覚えていない。乗り換えが死ぬほど嫌いだったから、多少は喜んだのだろうか。父はとにかく怒っていた。静岡で生まれ育った割に父はなんとも繊細で都会的な人だった。少林寺拳法を習っていたと聞かされた時は意外に感じたけれど、絵が上手で内気だった少年時代の父が、いじめられないようにとかいった理由で、なかば強制的に通わされたんじゃないだろうか。
 彼は、野暮ったい形で発揮される祖父の思いやりをとにかく憎んでいるようにみえた。花火大会に出かけたときに、薄暗がりのなかでせかせか気を回そうとする祖父に本気でキレて、宥めると「わからないんだから黙ってろ」的な怒号を飛ばした。普段の父は声を荒げたりしないので、ショックだった。母も田舎が嫌で上京してきた人だったために、終始気まずそうな痛々しい顔をしていた。愛憎は混じり合って共存するものだと私が知るのは、ずっと後になってからのことだった。

 最後に祖父に会ったのは、一昨年の夏休みだっただろうか。親と弟は都合がつかなくて、私が一人向こうに顔を出すことにした。確かその前の夏もそうだったから、家族が最後に祖父に会ったのはいつなんだろう。同じ静岡県内に住む母方の祖父母の家に滞在して、最後の日に祖父に会いに行く予定だった。
 母方の祖父母は孫のために何かをしてあげようと意気込むタイプではなく、逆に接しやすかった。けれど、久々に会ってみると、「今のふしだらな皇室についてどう思うか」だとか「韓国人はダメだ」だとか滔々と並べ立てられた。虚無感や落胆、田舎への嫌悪感、そして「人は誰でも老いる」という素朴な発見で心のなかがごちゃごちゃになった。すると、今まで木に求めなかった身の回りのものすべてに、体毛一本一本を逆撫でられるような心地がした。風呂場の鏡にはなぜか大きな黒い足跡があり、シャワーを出すときいきい耳障りな音が鳴る。タオルやコップはすべて、めだかの水槽のような匂いがする。町全体は潮風にのって流れてきた養豚場の臭気に包まれているが、移動をしない住民たちはそれに気付いていない。ストレスの限界で、夜中にひどい蕁麻疹が出た。父に相談したら、父伝てにそれを聞いた母が私に謝ってきた。おかしな気を遣わせたくないからわざわざ父に言ったのに。父もきっと老いたんだ。
 そんなことの後だったから、私はもはや飽和状態だった。最終日に、祖父が当時住んでいたマンションへ重い荷物を持って向かう。人もまばらな炎天下で、アスファルトから照り返す日光がただただ苛立ちを募らせる。やっと祖父の家に着いた頃にはすでに精魂尽き果てて、不機嫌で無口な私と、祖母が死んでから一層足を悪くした祖父だけが残された。出されたお茶とお菓子を口にしつつジリジリと時間をやり過ごし、やがて新幹線の時間があるからと席を立った。祖父は何度も、駅の近くの金券屋を使えば安く帰れると繰り返した。頼みの綱がそれしか残っていないみたいだった。車で私を送れないことをしきりに残念がっていた。私は、こだまの車窓から富士山を眺めつつ、眠りの波に呑まれてしまうまで「会いに行くだけマシなんだ」と自己弁護を続けた。

 今年の梅雨入り前、祖父が倒れる。玄関先で動かなくなっているのを友人に発見されたらしい。意識を失ってから二日ほど経っていたが、奇跡的に助かったとのこと。コロナ禍で会いにいくことはできず、父から何度か夕方のニュース番組のように経過報告があって、あとは何気なく日々が流れていった。容体が急変したのは七月に入ってからだった。
 病院に行くことは依然叶わなかったけれど、看護師さんの配慮でテレビ電話が繋げられた。父の仕事用の大きなデスクトップパソコンに、骸骨のような祖父が映し出される。余った皮膚が大きく波打っていて、なんとなくトロールという単語が思い浮かべた、それがどんなものかもよく知らないのに。父と母は、まるで介護士みたいな口調で祖父に話しかけている。「こっちは、げんきでやってるでね!」「あいにいけないけど、がんばってね!」「いってること、わかるら?」わざとらしい方言がベッタリと耳に残る。私と弟は、このとききっと同じ気持ちだった。促されても何も言わず、こわばった笑顔でただ手を振った。

 私たち兄弟は、そろって過剰適応の子供だった。小さいころ、近所の人にお小遣いをもらったときに、私は笑顔でありがとうを言った。弟は私に「遠慮しなよ!」と怒った。その場では口を噤んだが、胸のなかで「子供は素直に喜んだ方が大人にとっては嬉しいんだよ」と弟に諭していた。
 反動なのか、私は場に応じた振る舞いのできない人間に育っていった。マナーや儀式なんて糞食らえだと思っているし、高校には派手な私服で通学していた。真っ青なニットに真っ赤なミニのタイトスカート、ピンクの水玉ワンピース。到着するのはいつも昼過ぎで、友達なんて居ないに等しかった。授業中も休み時間も小説のページに目を滑らせながらやり過ごした。そしていつの間にか、たった五分間の画面越しの面会ですらも、可愛い孫を演じられない自分になっていた。
 ビデオ通話から二週間ほど経った深夜、父の携帯が鳴った。私と母はそれが訃報だと知っていた。

 今朝、体温を測ると熱があった。三十七度二分。大した発熱ではなかった。大方昨日の夜更かしのせいだろう、体調は悪くない。けれど先に静岡に行っている両親にそれを伝えた。なし崩しに葬式には出ない方向に持っていった。
 申し訳程度に皿を洗って服を畳むと、部屋に籠って小説を読んだり、図書館で借りた数冊の写真集を眺めたりしていた。夕方には生理前の猛烈な睡魔に襲われた。ほとんど抵抗もできず眠りに引きずりこまれ、夢のなかで何度も凶悪犯に殺されたりした。
 十八時ごろに、弟が帰ってくる。顔を合わせづらく、何か食べたいものはあるか、買ってこようかとLINEを送ろうとしたら、弟がメッセージの送信を取り消した痕があった。それでなんとなくリビングに行くと、シャワーを浴びた弟が寝そべっていて、「お弁当があるよ」と教えてくれた。思ったより、というかカンペキなまでにいつも通りだった。むしろ機嫌が良いようにも見える。「なんか豪華な駅弁だね」と言うと、「ああそれ駅弁じゃないんだよね。火葬場でもらったやつ」と答えられ、しまった、と思う。
 私は急に、小学生のころに自分が放置していた上履きを、弟が洗ってお小遣いをもらっていたの思い出して、目の前が夕焼け色に染まった。休日の十七時過ぎに目が覚めて、散らかった部屋に西日が満ちているのをぼーっと眺めているような気持ちだ。水を飲もうとコップを出して冷凍庫をあけると、氷がなかったから弟に作り方を聞いた。
 六つ下の彼は、私と違って掃除も料理も宿題もやる。部活だって友達作りだってできる、カンペキ人間だ。それなのに、親や先生の脆弱さまで受け入れている。理不尽に叱られようが振り回されたりはしない。学校の成績は悪いけれど、どうしようもなく大人だ。私は世界一彼を尊敬している。真っ赤に燃える夕焼けの心のなかで、絶対にお前を幸せにしてやるぞ、と誓う。救いようのない姉だ。
 ふと、弟のしゃんとした背筋が、向日葵に似ていることに気づく。祖父も、あの太陽の花にそっくりの屈託ない笑顔を咲かせる人だった。こんな結びつけには何の意味もないとわかっている。けれどどうしようもなく結びつけてしまうのが人間で、どうしようもなく私たちを喜ばせようとしてくれたのがおじいちゃんだった。自我が芽生えると、おじいちゃんの優しさは煙たくなった。祖母が死ぬと、おじいちゃんは小さく可哀想な存在になった。おじいちゃん自身が死ぬと、私とおじいちゃんはもう一生会えなくなった。そしてきっと、幼い私も今に死ぬ。おじいちゃんと私の関係は、私が生きつづける限り、絶え間なく変化する。それだけのことだから、今はまだ悲しみは要らない。