おとなのふりかけ

 今日は中学時代に通っていた塾の先輩と約束があった。彼女は今、東大の院でプロジェクトに参加していて、研究員として日夜、シャーレのなかのみえない何者かとたたかっている。休みは週に一度あるかないかという多忙さなので、向こうにあわせて御茶ノ水へ出向くことになった。

 かれこれ十年来の知己だ。神経質で、待ち合わせに必ず余裕をもってくる性格は熟知している。だから遅刻常習犯のわたしも運命にあらがわんばかりの覚悟でいそぎ家を出て、十分前行動に成功した。が、改札を出ると、やはり彼女の姿はすでにそこにあった。品のいい水色ニット、スリットの入ったスラックス、そしてパンプスにおおぶりのイヤリングという良い女すぎる出立ちで、どこまでも颯爽と立っていた。

 久しぶりの再会で、多少ぎこちない空気をごまかすように、何食べようかと相談がはじまった。凍てつくほどに寒い夜だったから意見の一致に時間はかからず、もつ鍋に狙いを定めて歩き出す。肩慣らしタイムはまだつづき、次に話題にあがったのは、受験時代の仲間たちだった。Mくんはどうしてるのかな。R先生は誰も連絡とってないよね、今ごろ孤独死してないか心配。やっぱり最後まで嫁きおくれるのは私かTちゃんかな。

 思えばあの頃は、本当に不思議な時間を共有していた。公立小中出身でワンコインの小遣いのやりくりのほかは頭になかったザ・庶民派の私も、床も壁も調度品もまっしろな豪邸に生まれて、重すぎる圧からメンヘラになり、やがてギャルへと華麗な転身を遂げた女の子も、漢文でラブレターを送りあっていた東大生講師のカップルも、偏差値32から医学部を目指すボンボンも、みんな一緒に笑っていた。受験という大きな壁の前でわたしたちは、完全に人間性を排される。だからこそ、何者でもないじぶんたちとしてまっすぐ語りあえたのだ。

 北風にうつろに揺れているイルミネーションを横目に十分ほど歩くと、先輩の行きつけのレストランビルに着いた。しかし、目当ての店の前には入り口をさえぎる形で看板が置かれ、営業中かどうか怪しい。
「今日はやってないのかな」「一応みてみようよ、中明るいし」
白木の格子の引き戸をあけると、活気に満ちた様子の店内が目の前にあらわれた。しかし安心もつかの間、「本日は予約で満席です」と宣告され、すごすごと引き下がる。出口の見えない冬後半戦、誰も彼もが必死で暖をとりながら、血眼になって「春の気配」を探している。

 仕方なく私たちは、同じビル内で手ごろな店を探した。ホットな汁物への希求は捨てきれず、目をとめたのはスンドゥブ・チゲ屋。「ここにしよう」と言いかけて、道中の会話のなかで交際相手が韓国人であると伝えていた私は、「男にかぶれているな」と思われるのが嫌で躊躇した。しかし先輩は当然、こちらの卑小な葛藤などはどこ吹く風で、「ここ良さそうだね」と先導した。店内は先ほどの博多居酒屋と打って変わって閑散としていた。初々しいカップルが紙エプロンをつけ、律儀にもパーテーションごしに微笑みあっており、ほかに客の影はない。

 案内された席につき、先輩はおそるべき早技でメニューを確認すると、二枚重ねの上着とマフラーを脱いでやっと一息ついた私を見やって、にやりと口角を持ち上げた。人差し指の先に視線を落とすと、「特製!博多もつ鍋風スンドゥブチゲ」の明朝体が踊っている。そうだった。この人のこういうところなのだ。一見隙のない女に、これほど簡単にふところに飛びこまれたら誰だって、と思う。一般社会と隔絶したお嬢様ばかりが集まる女子校で育った彼女の所作の一つひとつを眺めていると、「無菌培養の功罪」という見出しが脳裏にちらついた。

 注文をすませ料理が運ばれてくるまでの間に、話は過去から現在、未来へと移り変わっていった。はじめにつっこまれたのは、目前に迫った引っこしのことだった。もう半月も経たないうちに私は、「はじめての一人暮らし!」ではなく「はじめての同棲!」を開始する。四人暮らしから二人暮らしなのだから、私としてはまあ穏当だろうという感覚なのだけれど、世間にしてみれば一足飛びにみえるようだ。そのうえ稼ぎ頭は彼氏より七つも年下の私だというのだから、周囲のゆきすぎた心配も無理からぬことだろう。

「いやあ大変なんだよ、やっぱり人生の節目節目で差別って浮き彫りになるよね。外国籍入居不可のところが多くてなかなか良い物件がみつからないの」
「……だろうね。ていうか親にはちゃんと言ってるの?」
「お母さんには。お父さんには内緒にしてる」
「終わったな(笑)」
「大丈夫だよ。私が稼ぐんだから嫌になったら実家に帰ってもらえばいいし。何の問題もないよ」
「いやヒモじゃん!(笑)本当に心配だわ〜。私の妹も年上の韓国人とつきあってたんだけどさ、この前泣いて電話してきて、『脱毛しないと別れる』って言われたって。そんなやつ今すぐ捨てなさいって言ったんだけどあのメンヘラは今頃より戻してるんじゃないかな」

 そんな話と一緒にしないでよ。と内心で思ってすぐに、性質としては一緒かもしれないな、と打ち消した。私と彼氏は、家庭に居場所のない者同士、幼少期に負った傷を癒せないまま大きくなった者同士として出会い、恋をした。日本全国の大学生カップルの例に漏れず、自分たちは少し特別なんだという思いを抱きながら。青くさい幻想だという自覚はある。けれど私はまだ、過剰なまでに個性を求められ、逆説的にすべての人間が無個性化していく、そんな社会からの逃げ場として機能する恋愛しか知らない。自分を諦めることが大人になるための洗礼なら、大人はどうやって人を好きになるんだろう。誰かを好きな自分をどうして維持していられるんだろう。どうして。ずぶずぶと降りつもるやるせない苛立ちに窒息しそうになり、つい口を滑らせた。

「そんな人じゃないよ。もうつきあって一年以上だし、結婚の話だって出てるもん」

 先輩はさっと膝に目を落として一言、「はやいよ」と切り捨てた。しまった。そう思うよりはやく、手足の血が冷えていく。同時に、この人はここまで綺麗に拒絶の声音をだせるのかと場違いな感心をしていた。塾にいたころは常に屈託なく振るまいつつ、誰も傷つかない空気作りに影で腐心しているように見えたから。

 その瞬間、雪崩を打つように違和感があふれた。久々に会った先輩に、少しのゆらぎも見てとれないことへの違和感。私はそれを、心から愛せる仕事に打ちこんでいる人ならではの強度だと思っていた。けれど、「芯が通っている」という言葉だけでは捉えられない何かがあるような気がした。

 今日彼女の口からこぼれたエピソード──自力で組み立てた自転車で走っていたらハンドルが外れたこと、研究発表前にはアドレナリンが出て四日間も徹夜してしまうこと、周りがぞくぞく結婚していくなか自分はぜんぜん恋人をつくる気分にならないこと、最近の一番の悩みは布団カバーがずれること。それらすべてが、彼女のキャラクターの裏づけになっていた。有能で、育ちがよくて、ちょっぴり天然。もちろん先輩に演じているつもりはないだろう。疑いをもたずただ粛々と、彼女は彼女を生きているのだ。

 そして一つの考えに行きあたった。今目の前にいるこの人こそが、「大人」と呼ばれるやつなんじゃないのか。だとしたら。

 先週、同じ塾に通っていた男子と海鮮丼を食べにいった。私の就職祝いだった。海鮮丼を食べて、原っぱの敷かれた小綺麗なビルの屋上で駄弁っていた時に、彼が先輩に恋していると知った。三つ下の元カノの幼さを愚痴る彼に、冗談のつもりで「先輩とつきあわないの?」と口にした。すると「まだぜんぜんいけるかわからないけど、次の日曜にドライブ誘った。なんか展望台がみたいんだって」という答えが返ってきて心底衝撃を受けた。大したことではないのかもしれない。けれど、リアルのコミュニティで出会って友人として深めてきた関係が、急に恋愛回路に切り替わる現象が、私にはいつも理解できないのだ。いつも蚊帳の外で、気づいたら誰かと誰かがあんなことやこんなことになっていて、私一人がまるで並行世界にでもまぎれこんでしまったかのように、淡々と色気のない日常をやっている。

 まだ二の句をつげないでいる私に彼は、「先輩ぜったいタバコとか嫌いそうだよね。おれ運転中ぜったい吸いたくなっちゃう」と悩んでいる。雲一つない屋上で、かすかに芝と汗のにおいが混じるなかで、シルバーの指輪を三つもはめた青年が淡い想いを吐露していた。

 猫舌な先輩はゆっくりゆっくりと最後の肉片を押しこみ、口直しにジャスミンティーをふくんだ。その濡れたくちびるに目を奪われながら言ってみる。
「Mくんって恋愛相談はおばあちゃんにするんだって。それで前、『人生は長いんだから』って言われたらしいよ。すごい説得力で参っちゃったって(笑)」
先輩は、かわいい男が好きだ。それも彼女が丁寧にひいた線の内側のことかもしれないけれど。恋は盲目であり、逸脱だ。それなら今のMくんに勝ち目はない。彼は先輩の先輩らしさを一番に引き出してしまう。

 私はモテないけれど、片思いをしたこともない。出会い系で波長の合う人とつきあうからだ。だから彼が先輩に振られたら、実際それはどれくらいのダメージなのか、彼の心は、先輩の心は、二人の関係は修復されうるものなのか。それともそもそも恋愛は亀裂を入れたりせず、一時的な気まずさも時間に解決される類のもので、結局残らず良い思い出に変換されるのか。全部が全部なるようになるのか。何もわからない。わからないから、「チョコもらった!」と無邪気にはしゃぐ彼に「わたしは友達が少ないから、先輩もMくんもしあわせになってほしいな」と返信した。

 すぐに携帯が振動し、バナーで内容を確認する。
「おまえにそーゆーこと言われるのめちゃ嬉しい笑笑」
あとには、浮かれた絵文字が続いていた。ひらかないままスマホを置いた。